世界をもっと面白い場所にするために

世界は鏡。見る者によってその姿を変え、退屈も面白いも要はその人次第。

一時的なfunを提供するエンターテイナーにはなれなくても、
持続するinterestingを伝える文章の書き手にはなれるのではないかと模索中。
そんな風に批評家を気取る目指す者のnotes=メモ;短い手紙;声明;日常の様子

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コーヒーを「こーしー」って呼ぶのが生粋の江戸っ子だっていうのは俗説なんでしょうか?
最近はネットで博物館や水族館の「バックヤードツアー」を調べて春休みの予定(お一人様)を立てるのがマイブームです。
あと、親から「いつまでもあると思うな親と時間」というメールが来たため、
免許は春休みに取ることに決定しました。

さて、そんな今日のしどいこと。

まず夢がひどい。
なんか大学生なのに下駄箱があって、
けっこう仲のよい友達に靴を取られ、
なんかそれをひょいひょい投げて回されて、
ひどく怒ったらしい僕は、
その友達と、靴を投げていた女の人(知らない人で同世代っぽい)を殴ってしまって。
なんか自分が叫んでいた理屈によると、
靴を投げるという行為は一人一人はたいした悪を働いてないけど、
された方にとってはすごく嫌だし面倒くさい事態で、
その一人ひとりの悪に対しては過剰な報復であっても、
「殴られる」っていう罰がない限りその行為は終わらない
ってことらしいです。

一人一人の些細な行為の積み重ねが大きな悪になるという理屈は分かるけど、
なんか「殴った」ということに自分自身驚いたし自己嫌悪。
あんまりいじめられた過去とかないのに夢見が悪いことだ。

そして2限。
今話題沸騰中の(このブログ内のみ)N先生の授業の最終回。

そしたらどうも前回とかの受講生4人のやり取りとかから、
なんか先生に対して好意を持っていることは察したらしく(わかんないけど)、
なんか色々とダブルミーニングな名言が飛び出しました。
(あれで天然だったら本当に悪女だと思う)

シーン1
僕「あの、駒場って学科とかの枠を超えて先生に可愛がってもらうことってできますか?
(その質問に笑い出す女性陣2名)」
N先生「まあ基本的に学生が飛び込んでいった場合拒む先生はそういませんね。
(いようにわく女性陣2名)
ただ、相性によりますけど。
(こっちを見て爆笑する女性陣2名)」

相性って何だ!?

シーン2
N先生「いえねえ、ゼミ形式でやったしお食事でもとも思ったんですけど、
私も微妙な立場なんでですねえ・・・
(腹を抱えて笑い机に突っ伏す女性陣2名)」

微妙な立場って、素直に取れば教授の代講の助手って事だけど、
裏読みすると「既婚」って部分じゃん!!

シーン3
「半年くらいじゃまだまだそこまで仲良くはなれませんよねえ」

半年も!、だよ!!



しかもこれらの台詞をいいながら先生も笑っているという・・・

ただ、まあ小学生みたいに騒いでいた僕(たち)も悪いんですけどね。
で、一応整理しておくと、本当に西先生みたいな女性は素敵だなあと思うのですよ。
パワフルで。
もちろん先生としても充実したゼミでよかったし。

だけど、まあ理想の女性であっても既婚なわけでそこはいくら僕でもわきまえていて、
だからまあ気持ちとしては本物でも行動まではいかないという微妙なライン。
憧れに近いというか。
それでもその微妙なラインの微妙さを説明することなく悪乗りしたような気もして、
そこは反省すべきかもですが。

で、「文林通言」の文体に酔いつつペーパーを書き、
最後の御厨ゼミを終え、その後は渋谷で飲み会。
やっぱ一緒に一年やってきた仲間だわーって気がする。
自分なりのまとめは別にまた書きますけど。

一応自分の文章の目標を石川淳の文章の中に見つけました。

「叙するところ奔放、さきに飛び、あとにもどり、また任意に旋回して書になぞらへていへば狂草の流か。
遊絲絶えざるがごとくにして、前後に照応あり。
論旨に戸まどひなく、行歩あせらず、をりをり三遍まはつて葉巻にするおもむきと見えて、
ただその葉巻のけむりの中におのづからことばが定著しスタイルができあがってゆく」
というもの。

アクロバティックな三回転かとみせて、
その残像の中に何か残るような、そんな文章が書けたらなあ。

ってわけでペーパー。
体操でいうと、ぎりぎり最後のポーズで踏みとどまれた感じ、らしい、先生曰く。
(あの手を開くポーズね)

「文林通言」石川淳

 本書に時代性を読み込むのならば、
まず「月ロケット」という単語に着目すべきだろう。
アポロ十三号に憧れた少年が描く「前世紀少年」の物語が「いよいよクライマックス」をスピリッツ上で無限に引き伸し、
中国が人工衛星の軌道上にまき散らしたデブリで、「人類の夢の空間」への進出が危機に瀕している現在から見ると、
隔世の感がないでもない。

 人工衛星という単語が出たついでに述べるなら、
読者自身があたかも人工衛星としての無限周回に送り込まれたかのような読後感にも、
古き良き時代を読み取ることは可能だ。
例えば、沖縄で海上特攻隊の指揮官だった小説家島尾敏雄を扱った文章。
島尾は、妻の病気を機に奄美大島に移住し、
「フィールドワーク」かのごとき生活を営む。
そこには「かれらのなかにはいって行くことが許されるためには、かれらの経歴の過程を背負わなければならない」という信念があった。
しかし現実には、島尾はかれらに「いやされていた」、
つまり、かれらの外に立ち尽くしたのであり、
「自分のうちがわのことだけで終わってしまうならさびしすぎた」と述べる。
ここでまず沖縄という他者から等距離上をぐるぐると回り続けるしかない人工衛星の姿が示される。
しかし話はそれだけでは終わらない。
地元民に自決を命じた陸軍将校の問題も「わが身のことと受け取り」煩悶する島尾を、
石川は「このひとは他人の分まで含めて苦患におぼれる。島尾君の文学のスゴミはさだめてここから出るものか。かくのごとき人物を、わたしは他に知らない」と評価するが、
それこそ石川自身「サルトル、サルトルを語る」を引いて批判した、
戦争というドラマが与えるヒロイズム、安易な感情移入ではなかったか。
本書にはこのような無限ループ、答えの出ない迷宮が幾重にも張り巡らされている。
金井美恵子の小説中の
「いつも同じ迷路へ、繰り返し繰り返し入って行ってしまうのに、そこから出られることがない」
といった世界観に対して石川が述べた
「解釈をつけないところに、おそらく『理解』がある」といった態度を、
私たちも本書に対して取らざるをえないのだろうか。

 だが、実際の宇宙開発でも、
周回で受け取るエネルギーをもって脱出速度を超え無限の旅へ飛び出していくスウィングバイがあるように、
思想という堂々巡りの末に「一方通行」の道に放り出される者もいる。
1970という数字に刻印された三島という固有名詞にあてたこの単語を、
石川が既に、天子のいる「長安が上がりの一方通行の道」として「アラビヤから東への道」を生きたという形で、
天才詩人李白に対しても与えているのは興味深い。

 だが、無限ループと一方通行を描く石川自身はというとその身のこなしは軽やかだ。
バルトの名を各所にちりばめ、
「書くまへの意図なんぞは、書いてしまった作品の世界、理想的にいへば発明された世界に対しては、おのづから消えるべきもの」
とテクスト論的認識を示したかと思えば、
本書を通じて石川が向かい合うのは「テクスト」ではなく終始一貫してその書き手であったりする。
しかも向かい合うというよりはお茶を一杯だけいただいて去っていくような軽さでもあり、
その辺が「姿勢を崩さなければ見えない真実がこの世にあることを、私とて知らぬではない。しかしそれは他人に委せておけばすむことであった」と記す三島との決定的な違いだ。

 専門家(書生)の学問と趣味の篤学家、
精神と肉体、
研究の現場でのてんやわんやへの接近と是非の評におよばない淡々たる記述、
といった二項対立らしきものを挙げてはすり抜けていく石川の姿にこそ、
彼が吉田健一を評して語った
「叙するところ奔放、さきに飛び、あとにもどり、また任意に旋回して書になぞらへていへば狂草の流か。遊絲絶えざるがごとくにして、前後に照応あり。論旨に戸まどひなく、行歩あせらず、をりをり三遍まはつて葉巻にするおもむきと見えて、ただその葉巻のけむりの中におのづからことばが定著しスタイルができあがってゆく」
という言葉はふさわしい。
これ以上の褒め言葉を寡聞にして知らない。

4122005264文林通言
石川 淳

中央公論新社 1978-01
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本当は昔の旧字・旧仮名遣いの方で読んだほうがいいかも。
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